| 「続 野次馬ドクター ア・ラ・カルト」より 『劣等感は飛躍のバネ』 例えば、外科の先生が患者さんの虫垂炎の手術をして御自身の虫垂炎まで治したとか、歯医者さんが他人の虫歯の治療をしたあとで気が付いたら御当人の虫歯も治っていた等という話は聞きませんが、その点、精神科医師は御利益のある職業でして、特に神経症系疾患でお悩みの方々の診療やカウンセリングをしている間に、自身の上にも思い当たる所があって納得し、その結果ストレス原因の諸症が軽くなってしまう事がしばしば有ります。 つい先頃、外来を訪れた高校2年の女生徒は生来優秀な資質を備えながらも僅かな蹉跌を過大に捉えて意気消沈し、登校する気力を失っておりましたので、カウンセリングにあたり「挫折感、劣等感は物事を深く考える人間に導いてくれる一つの機縁だ」との趣旨の話をしましたとろろ、やはり賢い子だったのでしょう、よく理解し元気を取り戻してくれました。 この時用いた論法は、私自身の体験から割り出した知恵とでも言うべきものでした。自らの過去を振り返ってみますと、物心ついてから壮年に達するまでは劣等感の塊でしたし、現在もその傷跡を引きずって暮らしている有様です。ただ、有り難いことに、患者さんに向かっている間に、自分をも説得する形になって客観性を体得し、心の奥に潜む劣等感から生じる謂れの無い悩みで苦しむことは無くなりました。 劣等感或いは優越感はあくまでも主観的な心情ですので、周囲の人々の評価とは乖離する場合がしばしばでして、あの素晴らしいメロディー・メーカーのチャイコフスキーが新曲を発表する度に怯んでなかなか指揮台にあがれなかったとか、一世を風靡したテナーのマリオ・デル・モナコが舞台の袖でガタガタ震えて、その都度夫人に背中を突き飛ばされる様にしないと観客の前に出られなかった等のエピソードは、その間の消息を伝えております。 以前に、高名な歌人がNHKのインタビューで「私の最高傑作はこの次に作られる歌です」と言うのを聞いて感銘を受けたことがあります。あのダ・ビンチが名画モナ・リザを公開しなかった意図が何処に在ったかは議論の分かれる所ですが、まだ手直しをするつもりだったのは間違いの無い事実のようです。という事はダ・ビンチにとってモナ・リザは永遠に未完成だったのでしょう。 この様に、自分、或いは作品をどう評価するかは個人個人の欲求水準如何にかかっておりますので、むしろ優れた資質を持つ人物ほど世評の高さに内心忸怩たる物を覚えておられる様でして、我が国のジャズシーンをリードする渡辺貞夫などもレコードで自分の演奏を聞かされた後「何だか変な音ばかりですね」と恥ずかしそうに苦笑しておりました。これほどに衆目の一致する実力者が謙虚に振る舞うのは、単なるジェスチャーではなくて、心底からの態度である様に思われます。 NHK 「小朝が参りました」に出演した百歳のおばあちゃんは、年齢から考えて驚異とも感じられる程に博識でしたが、「勉強がお好きだそうですね?」と尋ねられて「だって、何も知らないから」と答えておりました。 実は私もかねがね同様な不全感を抱いておりますので、機会あるごとに見聞を広めるべく右往左往しているのが実情です。
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